誰かのための買い物.ここのところ誰かが使う物を買うことが増えた.額にすると8割を超えている.妻や大切な友人知人や,教会の人たち.自分のために新調する物が食事くらいになった.この変化は以前から見られたが,自分の欲しいものがついになくなったので,ほとんどの買い物が誰かが必要とする物になってきた.この自分のために物を買わないという行動にはモデルとなる人物がいる.私の父である.
父は自分の欲しい物をほとんど買わず,子どもの教育費に充てていた.教育的観点から役立つものにしか一貫してお金を使わず,子どものためになる物や習慣にはほぼ何でも投資した.本やサプリや服も積極的に子どもに買い与えた.こうして私のような人物が育ったのであるが,きっと誰から見ても立派な親だと私を見て思われたいから私に投資したのだ,という見方はきっと皮相であり,父の本心ではないだろう.
父は,私が幸せになることなら何でもする,と宣言した人物だ.私が20代に入った頃のことだ.私はひとり暮らしがしたかったので,下宿させてくれた.そして学問がしたかったので,大学院まで学費を納めてくれた.もちろん,アパート代や学費は最も安いところを調べたので,私はその審査や試験の程度に努力し,いずれも合格してきた.しかし,父の投資による私の満足は深いものがあり,いまだに続いている.
私が欲しかったものは,学問であり生活であり人間性であったと思う.父はそれらを支えてくれた.父自身の欲しいものは,服とか映画とか文学とか,そういったものではなく,私が満足する姿だったかもしれない.今父は定年後再雇用で働いていると聞いている.ゲームがしたいと言っていたのも覚えている.元々好きなことだったのだと思う.つまり父も,自分の欲しい物を買っていたのだ.人間の欲しい物は多様なのだ.
