若い人で自分が嫌われていないか気にしすぎる人がある.そういう場合,歳上の人の心が広く安らぐと感じる.この構図は,若い人の価値観が「嫌われないように行動する」との原理だけで,他の要素を全く顧みない思考になっていることが,彼らを不自由にしている.本当は,彼らを嫌う人なんてほぼいない.もっといえば嫌いで避ける人も憎んでいる人もいない.嫌われないようにする人ほど気をつけているからますますだろう.
嫌われないように動く人に問いたい.自分が嫌う人はいますか.その人はどんな人ですか,その人を嫌いに思っている自分をどう思っていますか.つまり,自分にこのような問いを投げることで,嫌うという感情が内部ではなく外に向いたもので,嫌われるという感情が外に向かないことに気づくだろう.嫌うのは誰かではなくて誰かを嫌っている自分が最も嫌いな人だろう.嫌われ捨てられるという恐怖は現実になることではない.
人は学ぶものだ.そして,学びを得た人には感謝の念を覚えるものだ.それはその人を嫌いだとか苦手だとかもう会いたくないとかとは別で,たとえそういう人だとしても学びを得たので感謝するのである.欠点を端的に指摘してくれた人とか,厳しく指導鞭撻してくれた人とか,記憶に傷が残る言葉を発した人とか,そういう様々な形式から学びを得られたら,それは神さまが送った人生の宝である.躓きの石も実は宝石なのだ.
価値観を大事にすると,つい自分の価値観を全てだと思い込み,異なる価値観を排除しようとしがちだ.自分の人生なのだから自分の価値観を誰に対しても貫こうとするのだ.価値観なんて多数の軸の集合なので,反転もするし結合も分離もする.その運動のきっかけが躓きの石による学びである.痛い目にあって軸を反転させた経験は,価値観の振れ幅を作り価値観から自由になれる.価値観は牢獄であり決して天国ではない.
