生きていると失敗やトラブルに出会す.例えば,病院に面会に行ったが,途中で接種券を忘れたことに気づき,自宅まで歩いて戻ることになった.その時,自分の失念を責めればそれで終わりだが,私はいつもこう考える.「忘れて家まで歩かせた理由がある」.神さまが私を歩かせた理由である.接種券を持って病室に着くと,面会の部屋でまだ食事していた.私が歩いている間,神さまが食事の時間を確保していたのだ.
この「神さまがそうさせた理由がある,私にはまだわからないけど」という考え方は,好奇心を駆る.失敗や問題も挫折した過去も,神さまがそうさせた理由があると考えるのである.その理由は事前にははっきりわからない.でも,その後よく観察してみると,うまいこと「失敗」しておいてよかったことに気づき,そのとき既に失敗ではなくなっているのだ.失敗を無効化し,未知の理由を与える,神の知恵である.
これが,私が正直に申し上げて信仰を持って最も良かったことである.神さまが予定しているご計画に沿って私をそうさせたのだから.だから私のせいだとか2度と失敗しないように気をつけないととか,そんな責めもなんでもない.私は常に神さまの予定に従って在り続けている.その予定はどんなに想像力を駆使しようと私には未知であり,不可知でさえあるだろう.だからこそ,生を求める価値もここにあるのだ.
今日もよく働いた.家の仕事もした.生活のルーティンもできた.後はベッドで眠るだけ.それで明日を迎えられる.明日は何か新しい失敗に出会すかも知れない.新しい情報を耳にして学びがあるだろう.美味しいものを食べて帰るかも知れないし,安い日用品を引っ提げて帰宅するかもしれない.それは今はわからない.でも,明日を終える頃にはその日1日の行動全てが神さまに予定されたものだったと振り返るだろう.
