四十而不惑というが,私も無事そうなりそうである.今36歳であるが,思考は中庸に収まってきて,行動も落ち着いてきて,お金の使い方や買い物の仕方,食べ方や体の動かし方という生活習慣も確立し,ちょうど良く平穏な生活になってきた.心の平安はイエス・キリストへの信仰が大きいところを占めていて,祈る暮らしをしているので,悩みを抱えることは全くなく,苦難の苦しさも感じなくなった.
落ち着くということが,年齢相応の落ち着きが,世間でも好ましく捉えられるように,当人にとっても落ち着いた暮らしに落ち着くということが,生活の満足や人生の幸福に直結するないし同値となると知るのは,老いへの入口に隠れている奥義かも知れない.落ち着くことが幸福だと感じるのは老いたことでもあるかも知れないが,人生の幸福を考えれば大概,平穏な暮らしをすることだと結論されよう.
今,何か基礎を整地している感覚に捉われる.種を蒔く前の土壌を肥沃にする作業をしているかのように感じられる.それは本を読んでいても本の内容である前に内容の表現だったり修辞や言い回しだったり,必ずしも内容を理解するためだけに読んではいない.何か多くのことを玩味して吸収する読み方になってきており,これは進化か発酵だと思う.そして,そんな時期は今しか来ない気も薄々している.
本を読むことがこれほど広がると,本当に多くの知識が多層的なものの見方を可能にしてくれそうで,物事に明るい老人になりたい私はこの方法で読書を進める.ようやく来た気がする.ここまで変化させたのは,光文社の古典新訳文庫のセネカ,毎週の合唱団における声楽の教養,社会委員会での読書会による.ひとりでアウトプットするだけでは得られなかった世界のつながりが成長の鍵になると理解した.
