経験した方がいいと分かっているのに,いざ手に取ると怯んで実行を選択しない.それが読書だ.今夜も1冊の文庫を読み切り,読後のこの贅沢な感想空間を我が物として味わう.今この瞬間に手元のこの本を読了した人間は地球上で私しかいないだろう.私しかいないという誰にとっても当たり前の事実を確認し難い今の時代だから,私の個別性を感じたい時には読書が最もいい.そのための本は千円足らずの文庫でいい.
読み終えた文庫は居間の書棚に移し,書斎の机上の小さな本棚からまた1冊姿が消えた.iPadのアプリで記録している読書記録に,新たに2行書き加えた.読み終えた小説のタイトルを1行書き入れている.今日の文庫には2編収録されている.今日は2話とも読了したので2行だ.こうして書斎からも記憶からも,今日読んだ文庫のことは忘れ去られ,記憶は発酵し,いつの日か今日読み取った筋書きとは異なった映像で蘇る.
書斎の小さな本棚にはまだ20冊程の文庫が背を並べる.今でも読み始めたい本だから,お互いに魅力を牽制し合っていざ手に取られるのをじっと待ち構えているが,当の本棚の持ち主は,読むために必要なのが時間ではなく意識の質だと考えている様子で,1冊の本をきっちり理解しながら読みたいという偏愛のために,20冊の文庫たちに平等に愛を注ぎ切ることができない.いつもどれか1冊を1晩かけて読むものだから.
本たちは諦めている.いつ私の200ページあまりある身体の全てがこのどんよりした書斎の空気に触れるのか.いつ無造作に挟まれたこの注文カードが読みかけたページから引き抜かれるのか.私の身体から豊かな思いを貰ってくれることは保証する.でも,それがいつになるかわからないから,ずっとここで待っている.椅子に座って物思いに耽りがちなこの書斎の持ち主に語る言葉をいつまでも持って静かにしている.
