なぜ東大に行かなかったのかと訊かれたことが何度かある.その時々で答えをかわしてきた.しかし,私は行けなかった.怖かったのだ.その直感の背後には,自分の性質に対する恐れがある.私の中退した高校から東大に行く人は毎年数十人いた.しかし,その人たちが皆人格者というわけではなかった.中にはすごいと感じる人もいた.でも,自分などは行く値打ちがないと感じてもいた.それが良かった.
もし自分などが東大に行くようになったとしても,1年で中退する自信があった.それは学問より先に人間性の歪みを持っていたから.というのは,よくある話らしいが,東大に合格すると東大生以外の人間を無価値に感じるという.当時の自分も例に漏れない.いまだに,私の出身大学は難関だと言われているけど,私立文系出身者をみると大学経験に価値がないと私はみなしている.だから怖い.東大に合格していたら.
自分は努力していると考えていると,自分より努力せず苦しんでいる人に価値をみなさなくなる.この性質が10代の私には当たり前のように意識にあった.だから,私がもし東大を主席で卒業するような努力をしても,私は絶対に幸せにならない,このことがよくわかっていた.だから,障がい者雇用枠で働いている今がすごく幸せで何もおかしくない.好きな人と結婚でき,その妻より低収入だが関係ない.
私は1番になることの怖さを中学生で体験している.史上最年少と冠されることがどれだけ不幸か.その体験が早かったことが,早めの軌道修正を可能にし,幸福への経路を短くしたと思う.今,宇宙論や神学の功績を殊更公表しないで生活しているのも,この怖さをよく知っているから.私は私なりに努力しても幸福にはならない.自分の追究の結果が不幸では悲しすぎるだろう.自己満足も大切だと思っている.
