方法論に拘ると内容が痩せていくのが常だ.だが,方法論ほど多くの読者を惹く文章はない.とまあこんなことを高校生のとき某という作家が書いているのを読んでから,人生は方法を多く集めればより豊かになるなんてことを思ったものだが,それは一面の真理だった.方法を多く探し求め,採用してから,内容を流し込むように育んでいく,この手順を繰り返してきて,ふと思う.内容が先に来ない不毛もあるのではないか,と.ある本のある一行が十年間の思索をもたらした話を以前どこかで書いたように,必ずしも方法論にこだわり続けてきたわけではない.また,方法を内容と見れば,蓄えた方法を開陳するだけでコンテンツになる.それは内容が伴うものであってほしいが.
前置きが長くなった.このサイトは記事数が百を超え,そろそろアマゾンのアフィリエイトに申請してみようと思う量になる.大して苦労せずにここまで貯めてきた.生活の一部になっている文章にまとめる行為について書いておきたい.ある詩人が老年になってこういったのだ,音楽が聞こえてくることも生きている証のひとつだ.ふだん私たちはどこかで聞いたような音楽を想起して豊かな気持ちになる.冒頭に紹介した作家はそれを恐ろしいと表現したのだが,一般に自分の時間を音楽に占められるのは心地よいことであるに違いない.だが,そう感じない人もあることを,ここでは念頭に置こう.つまり,文字に占められる空間を潔しと思わない画家を考える.
ある画家は文字が浮かぶことでイメージが後退することを恐れた.文字はなんでも表現できてしまうから,絵画など無力で,ペンが最も強い,とさっとよぎったその瞬間,絵筆を置いてカメラを手にした.文字は恐ろしい.豊穣なはずの映像も,実は音楽の描き立てるイメージも,言葉にしてしまうと後退する,そういうことがプロの芸術家でも起こりうる.これは習慣の話なので訓練すれば文字とイメージを分離でき,建築家や数学者でもプログラマでも,文字とイメージを分離して考える方法は大切だという人は多い.その中で,文字を書き散らすことは,容易なことで負荷のないことで,話すように書くというとおり話すことに等しい.話し相手がいない時間に書いてきただけなのだ.
だからけっきょくこのサイトに百記事も作ってきたのは,誰も聞き手がいない時間に,誰も聞きたくないような話を,ひとりで構成し悦に入ってきた,余芸にもほどがある行為にすぎないので,仮にどうしてこのひとはこんなに記事をかけるのだろうと思って読んでいる人には,誰も聞いてくれない話を誰も聞く人がいない場所でかいてみなと云うだけである.証拠に,家族が帰ってきたら文がふっと消えてしまうのだ.したがいまして一人の時間に自分が考えていることをまとめる技術は,自分の根幹である思考とその変遷を随時確認できるので,心の健康を保つ上でとても良いと書き残して,きょうはなんだか満足したのでやめる,それだけだ.
