ふと,人生が確定した世界を見せた感じがした.在宅で1日の仕事を終え,YouTubeでグールドのパルティータをかけた書斎で,着替えて夜の合唱団の準備をしていた時,窓からの光線で日陰が射していた.今まで,もっともっとと見えない何かを追求していた.これは今月の別の記事でも書いたことだ.それがふと,もう充分だ,と腹落ちした.もう買わなくたって,持たなくたって,いいのだよと耳打ちされた.
私は納得した.いくつかの夢は叶った.叶わなかった夢も形を変えて現実になった.それだけで幸福な人生のはずなのに,さらにもっと何かを求めていた.求めに応じて世界は新しい姿を見せてくれた.これからも求めることを否定はしない.求め続けるだろう.しかし,満足とはこのような世界が確定した状態を経験することだ,ということを人生は見せてくれた.それは肯定に似た真の充実をもたらすことだ,と.
その確定した世界には,何もネガティブなものはなかった.悪も感情も,圧力もストレスも,存在しなかった.ただ世界がある,そして自分が内面から接続し,内外全てが動じない.磐石の平安.私はこの経験を書き留めようと考えた.追求した先にこのような充実が待っている.人間はこの瞬間を再び崩し,再び求め始めてしまう.しかし,求めに答えてくれる神さまも,たまには満足を与えてくださる.
もし人生の終局がこのような確定した充実であるなら,生きる甲斐がある.静かに天に召されたくなる.なにしろ全ての経験の意味が結実した瞬間なのだから.それが確実に来るとすれば,生きる甲斐も,求める甲斐もある.それが瞬間であることが重要だろう.永続すれば過度に充実してしまう.過ぎたるは及ばざるが如し.人間の一生は神の計画によって不思議に保たれている.その一端を知れたようだ.
