牧師のことで悩んでいる.基本的に,今は牧師を信用していない.食べすぎる癖があり,糖尿や認知症の傾向があるのに,アイスクリームを見境なく食べたり野菜を素揚げして食べるなど,美味しければいいとの考えで食生活がなっていない.じきにツケを払うだろうと心配していたら,案の定,腰を痛め,脊椎の軟骨がすり減っているという.「歩くと自然に筋肉がつくのだろうか」と問う素朴さ.そんな人を私は信用できない.
歩けばわかることをわからないということは,歩いていないということ.歩くことさえしていないのだ.言葉は立派でも実行しない人だと,推して知るべしと私は思う.だから私は牧師の口の言葉はもうこれからは信用しないことにした.説教も祈りもあらゆる執り成しも,私は距離をとって聞く.礼拝は出席する考えだが,昼食会は欠席し,次年度から役員会はメンバー参加を断る.長期的に見て今の教会を離れようと思っている.
今は教会へ行かなくてもYouTubeで好きな教会の礼拝に出られるので,日曜礼拝に出席することにはこだわっていない.私の信仰は消えることはないが,教会へ行かないことで神から離れないように,相応の勉強をすることを自分に強いる.現代で教会は遅れた場所とされる.現代社会の方を勉強し,教会の遅れている点を見極めたいと思う.そうでないと教会という場所は社会的とは言えない信念を強化するだけの危険な場所に映る.
私は教団の社会委員なので,ますます現代社会の把握は重要な課題になるが,教団自体を離れることはできにくい.それはそれで主のみ旨だと思う.他の教団教派に定着できるとは思えない.私はこの教団だからこうして悩んでいられるのだ.だから今の教会環境には感謝しなくてはならない.でも牧師への信用がなくなったのは確かだ.こういうことも人間らしいことだろうし,聖書の未知の箇所から教えられる状態だとは思う.
