この休日の土曜,計画通り,上野へ行った.私の青春と恋愛の地,いわばホームタウン.この上野を動画に保存しておこうと思い,OSMO Pocketを携帯し,駅から出て撮影を開始したが,あまりにもここどこ感が強く,初めて来た場所のように撮歩した.20年前の青春,10年前の恋愛.それぞれの思い出の場所が,今この光景には無かった.私の人生が始まった出会いである大道芸も,露天も占いも,無許可では禁止になっていた.
東京芸大の方面まで歩き,都美のマティス展を見たら,もう上野にいる意味はなかった.海展やメキシコ展もやっていたが,見て回る気持ちは消えていた.その足でアメ横に寄った.幅員規制のためか道幅が広くなった分,積極的な活気は失われていた.きれいになったが,すっかりつまらなくなっていた.無駄の多い御徒町界隈は,もう私の思い出の中にしかない.ただ海鮮食堂は20年後の今も営業中で,変わらぬ味を食べてきた.
帰りの京浜東北線に乗る前,そうかあの上野はもうないのだ,私の記憶の中にしかないのだと悟った.これはどの場所でもそうだ.正月に帰省する地元の街も年々変わっていき,10年前の風貌はない.あの街の風景,通行する人々,商品,売り子,あるいはあのベンチ,植栽,モニュメント.どんどん消えては変わる.きょう見たこの上野も,ある人たちにとっては思い出となって刻まれるのだろう.深い,あるいは楽しいものとして.
思い出を得た地を再訪しても得られるものはなく,思い出を探っていく時間のほうが大事であると結論した.私の思い出だからこそその地は価値がある.いや,その地は思い出の中でしか価値がない.私の思い出は私しか持たない.今はどの土地にも存在せず,私の記憶の中にしかない.今日の午前3時間の散策によって,これらの大事なことに気づけた.思い出の価値を本当の意味まで知ったのだ.本当の価値は私の中にいつもある.
