在宅勤務の傍ら,休憩にイタリア協奏曲を聴いて一息つく.Sonosのスピーカーから出るグールドの演奏がクリアで溌剌と進む.人間,何のために生まれ生きるか,この問いを持ってから,精神にある程度の重さがかかった.なるほど,今まで考えたことのない視点.今まで悩んで考えてきたことの底に確かにあったけど気づけなかった事実的問い.人類史上の誰もが考えてきただろう基本的難問.人として考える義務がある問題.
多分,一生とはこの問題をどのように解決するかが重要だ.気晴らしに楽しみに漂っていては良い人生ではない.なぜ生まれこの世で生きているか,この問題を考え続ける,ことあらば悩むことが,いずれ人生の充実となるだろう.充実とはおそらく楽しさばかりでない.普通に生きているだけなら抱けない感情や概念が確かに存在する.畏敬,敬虔,品性.それら知る人だけが持つ感情や概念を大切に生きられることに意味がある.
なぜ生まれこの世で生きているか,という問いも,知った人だけが持てる概念だ.塵から生まれ塵に返るだけの命という概念を知ったからこそ悩める疑問だ.そして,自分だけでなく,人あるいは命そのものが,塵から生まれ塵に返るだけのもので,人は誰もがそうなのだ.人にとって普遍的な問題だ.神は聖書で意味を与えてはいる.その意味を生きることが人だと書かれてはいる.この問いを持ったら,神に従うようになるだろう.
この問いを持ったら聖書を読めてくる.読む目が違ってくる.私なぞ山上の説教でこの2ヶ月止まって考え込んでいる有様だが,そのくらいの,いやそれ以上の内容がある.もっと止まって考えて悩んでいくべきだ.それで自然なのだ.それが善い生き方なのだ.私にこの問いを持たせてくれたことには感謝したい.私は生きる意味を,何らかの意味だけでも,いつか得られる人生になったのだから.求めれば必ず得られるのだから.
