信頼とは,全か無だと思ってきた.会う人には必ず全的信頼を寄せ,いや,寄せなければならず,少しでも私を不信に思ったら信頼ゼロになる.いわゆる帝王のような考え方をしてきた.それが普通だと思っていたのだが,つい最近振り返ってみると,父も友人も牧師も,そして上司までも,私にとっては信頼ゼロ.妻だけが今も全的信頼を持てる人であった.ふと何かおかしいと思った.そう,神経の全か無かの法則のままなのだ.
つまりは,私にとっての信頼とは,ドーパミン的すぎたのだ.神経細胞の働きそのままだ.快楽は大きいが,簡単に信頼を零落させてしまう.少しでも信頼できない人は,信頼しないことを非難しながら,信頼をゼロにするのだ.これでは多分,信頼できる人は1人いればいい生き方になる.誰かより信頼できると捉えるなら,最も自分が信頼できる人が1人存在することになる.その人が大事な家族ならまだましだが,生きづらいだろう.
人間関係をドーパミン的に考えてはいけないのである.どんな人間であっても,人間は興奮を与えてくれる存在ではない.いつも興奮を与えてくれる人間は,芸人や娼婦のような職業だろう.人間はむしろ安寧や平穏を与える関係を作るものだ.つまり,オキシトシン的な信頼である.オキシトシン的信頼は,毎日の積み重ね,時間を共に過ごし,言葉を交わし,そうして初めて底が上がっていくような信頼である.夫婦も家族もそうだ.
そのためには,まずセロトニン的信頼が自分の中になくてはならない.いつも穏やかでいられること,批判や怒りをやり過ごせること,基本的に感情がニュートラルなこと.セロトニン的信頼は,自分に対する,あるいは人間一般に対する,基本的肯定感である.それがあって初めてオキシトシン的信頼を寄せられるし,その上にドーパミン的信頼をスパイスとして楽しめればいい.その信頼の階層構造を,私は1段も昇りきれていない.
