ウエルベックの「素粒子」という小説を読み始めたら,不覚にも高校時代の自分を思い出した.校舎の外観や中の様子,附属の図書館やほぼ隣接していた県立の図書館,授業そっちのけで自転車で駆け回った市内の街並.やはり私は文学を通して自分を深めようと思ったら,向き合わねばならないのは自分の思い出だ.過去ともいう.過去は確かに私のマインドに格納されているようだ.それを引き出す作業が文学を読むということだ.
思い出が豊かなのは,その情景の舞台が現在は存在していないからだ.先月行った上野公園は,私が高校生で写生した上野ではなかった.そんな上野はどこにも存在しなかった.当時の面影を示す欠片はあちこちにあるにはあった.しかし,それらがつながって当時の記憶が再現されたかといえばそんなことはなかった.記憶の中の上野は私の思い出のストックの中にしかなく,交わされた会話も私の過去の中で展開されたに過ぎない.
だが,これこそが文学の本体であり泉なのだ.私が文学と共に形成する現在は,文学と共に刻まれた過去を生産していく.私の過去は確かに文学や音楽や建築や数式と共にある.その世界線は現在も続いている.たった10年前の教会での思い出さえ,音楽と場所が聖句と結びついて記憶のプールにしまわれているのだから.私のこの無尽蔵なタンクから,いかにどれだけの記憶を引き出してきて,それらを再結合させられるかだ.
この再結合は,自分の過去を作るという意味で創造的であり,自分にとって最重要の営みだ.時間と少しのお金を投資して,最大の見返りがあり,しかもこの再想像の技術は徐々に高度化しうる.経験を重ねれば卓越できる.そうして初めて,私のサブテーマである文学創作のスタートラインに立てるのだ.私はこの道を選ぶ.資質や才能ではない,私の満足のため,幸福のため,生きがいのためにだ.最初の3節を読んだだけであるが.
