自分を取り戻すことが,どんなに難しいか.以前と同じ自分には戻れないと,ある精神科医は断言する.私は高校生になった頃,自分が非常に嫌いで,世の何ものよりも嫌いで,自分さえ失えたら何も望まないと思うくらい,自分を捨てたがった.結果,悉く捨て去ることができた.キルケゴール的にいえば,稀なほど強く絶望した.自分を捨て去ることに成功したのだ.どう生きても,20代は自分ではなかった.受洗するまで続いた.
受洗する頃になると,自分を自分で認められるようになり,自分が自分であることを求めるようになった.それがクリスチャンの幸福だと書かれていたからだ.それ以外に幸福な人生はないと信じるようになった.自分を取り戻そうとしても遅いじゃないかと何度も諦めそうになったが,主に祈って少しずつ本来の自分を取り戻す方向に導かれた.元来の自分の性質はすぐに戻ってきたが,精神性までは今も取り戻すことができずにいる.
少しでも育ってきた自分を感じられる時,無上に幸せである.そんな人は珍しいかもしれない.ほとんどの人は,育ってきた自分と現在の自分が一貫しているのだろうか,それとも,一貫性のない刻まれた断片的自分が散らばっているのか.私には決してわからない.でも,一貫している人の方が珍しいと予想する.ちなみに妻は一貫している人だ.昔と今が一貫している幸福な人物だ.その意味でも私は妻の生き方や姿勢を尊敬している.
自分が自分であり続けることはもう多分できない.でも時々だけ,自分だった自分を思い出すことはできる.私はかつて絶望してしまった.自分を嫌い,深く絶望し,自分を捨て去ったとさえ思えた.そんな私がもう一度子供の頃に育ってきたような自分であることを求めるなんて過大な望みだろうか.今はただ,私が自分に絶望しきったことを恥じている.後悔も立ってきている.もし思春期の私が自分を愛せたら,私は立派だった.
