YouTubeで礼拝説教を聞きながら,高校生の時の感じ方を思い出している.私の高校は下町にある進学校で,入学するのは難しい場所だった.街には見所が多くあり,15分くらい歩けば駅前の繁華街に行くことができるし,公共施設が集まっている閑静な地区も隣接しており,高校が厭になった私であっても行くべきところがあった.私は結局2年間でその高校を去り,同時にその街を徘徊することもやめることになるが,思いは深い.
朝9時の街の様子は,ごみを出す家庭人や遅れて出勤する労働者に加え,烏や雀の声が朝を告げ,木々の葉が風に揺れて騒いでいた.海辺では潮風が水面を波立たせ,背の高い風車を回転させ,砂浜に風紋を残していた.そういったすべてが学校で学べることのすべてより大事な気がして,高校2年生の私は授業に出なくなった.行く時は遅刻して行くが,授業中も休み時間も机に伏していた.同級の誰からも話しかけられないように.
今思えば,普通に授業を受け,そこそこの成績でいいから卒業し,大学を出ていれば,高い給与をもらえる会社でそこそこの地位を得られたと思う.この温い社会である.私のような仕事に情熱のある人間は少ないから.私はその温さが高校にも存在し,どこに情熱のやり場を向けたらいいのかで悩んでいた節がある.思い通りにはいかないことは承知の上で,思うように作り進められる領域世界を探していた.そこで作る技術と共に.
今挫折しているのは,思うような仕事ができていないことだ.作りたいものを作る仕事ではないことは理解している.会社のためになる成果物を作る仕事だからだ.それはどの会社にいてもそうである.自分のために作るのでは仕事ではないから.仕事になるためには会社のためになる成果物を作らなくてはならない.今その事実の前に足が止まっている.高校生の私に置き換えれば,授業に出なさいということだ.私はそれが厭なのだ.
