日本は,物質的な国だ.物質信仰と言っていい.だから先端技術をたくさん生み出すことが今もできているし,商品の消費額がかなり高めで推移し,お金が欲しい人が老若男女多くいる.物をたくさん持ちたいというわけだ.海外から日本の市場規模は大きいが,物の品質を見る目が厳しいので売る側も商品の質を高めなくてはならないとマーケティングでは考えるらしい.日本で受けた物は海外でも売れると考えるマーケターも多い.
日本がお金信仰,ないし物質信仰が強い国になったのは,宗教が薄いからだ.日本では神ではなく自分自身と闘う仏教と,八百万神的な信仰が一般的で,他の宗教と共存しやすいためか,特定の宗教が強まることがなかった.特に一神教は考え方自体特殊と見られていて,神の数を尋ねてもひとつと答える日本人は1割もいない少数派だ.多くの日本人は自然の中に神がいる信仰しており,自然科学の探究が進んだ背景にもなっている.
この日本的な社会で,私のように一神教の信仰を持って生きることは,難しくない.多くの日本人はクリスチャンに対し敬意に似た感情を抱いてくれる.キリスト教を人間の模範的教えであるかのように教育されているからだろう.それなのに,自らがクリスチャンになろうと思うことは稀で,大それたことだと思うのだ.自分がその模範的生き方を選ぶなんてとんでもない,私は私らしく私の人生を生きるだけだ,そう考えるのだろう.
日本はこのまま物質的な国であり続けるだろう.貧しくなるにつれ,物が買えない状態も続くだろう.富の格差ばかり強調され,経済的な勝負ばかり視点が向かうだろう.そんな国の状態は現代の特殊である.今の日本らしいと言える.物を持ちたい,あるいは少ない物で暮らしたい,という思いは,物質信仰の変種で,現代日本特有の思想である.物を持ちたい,あるいは物を持たないという軸でぶれている限り,物質信仰の中に止まる.
