私は元々この世の何が楽しいのかと考える人だ.流行っていることや今の文化に面白さを感じられなかったので,自分で作り出そうとしていた.自分で作ることに満足したら,あまり長く生きることは望まないとも考えていた.私が自ら教会へ行き受洗した後も毎週礼拝へ通うのも,この世を避けて生きることが是とされた人たちと空間がいつもあるからだ.信仰のない日本人が宗教を避けるのと同じように,私はこの世を避けている.
イエスキリストはこの世を愛したので,この世を嫌う私にとってイエスキリストがなぜこんなこの世を愛して身を捧げまでしたのかが深い謎に思える.世界のどんな思想家より完全な救済を達成したイエスキリスト.知恵を汲もうと思ったらイエスキリストに学ぶのが最善だと思っている.今までの10年間の礼拝を振り返ると,知らない間に高く教養され,見識を持つ人間になれた気がするが,私の力や努めによって得たことではない.
人の考え方は部分的で,完全にはならない.これはどんな思想家でも現代の学者でも私自身もそうだ.これからまだ長くあるだろう余生で,私は社会問題や思想の比較を研究していきたいと思っている.西欧近代思想が萌芽した時にキリスト教がどんなふうに受け継がれているか,詳しめに知りたいと思う.また,日本の神道や寺院仏教が江戸期に広まった明るい世の中の見方について,日本らしさとして知っておきたいと思っている.
異なる宗教,異世代,政治について,今年から活動したいと願っている.私たちは何者で,他者にとって何者であろうとし,神にとって私たちはどのような存在で,どうあるべきなのか.このような問題を,私自身の関心に従って,須く部分的に考察し,認識したいと思う.この思いの根底には,外国がどうなのかという関心がある.当たり前過ぎて認識できていない大きなことを,私は知らない.これはまずいという課題である.
