この1週間で,科学,哲学,数学,神学,音楽の動画を聴き比べた.それぞれの思考法が異なることから,人の思考の方法は1つではないのだとよく分かった.科学的思考法が最も優れているとか,哲学的思考法が最も深く納得できるとか,数学的思考法が真理に近づけるといった概念は,差し置いて考えるべきだと思った.私はどれも生活の中で取り入れたことはあるし,何か導いたことはあるが,どれかの専門家ないし学者でもない.
人の採りうる思考法はいくつもあり,それを状況次第で使い分けられるという能力が私に身についているならば,それは思考における大きなアドバンテージであり,変わった方法で物を考える人を理解するきっかけを人より多く持っている可能性がある.さらに,私の普段から採っている思考法はおそらくこれら以外にもいろいろいある.自己啓発書に近い考え方をするときもあるし,芸術家や妄想患者や暴君のように考えることもある.
人の中に多くの思考法を内蔵していくことが重要だと思ったのだ.科学者でも,常に科学的に考える人は少なくて,少なくても趣味ではファンとして,教会では熱心な信徒として,家族では素朴な愛をもって,考えているだろう.思考法は何でも,常にその思考法を採って生きねばならないとか,どの思考法が最も優れた思考法だとか,あまり言えない.ひとつの思考法にこだわり続ければ真実が得られるのかもしれないが,犠牲も多い.
人がいかにして生きているか,様々な本の文章から学ぶことができる.明らかに私と異なる思考系で生きている人がいる.しかも意外と多くいる.彼らを捉えるとき,既存の便利な枠組みに当てはめてしまってもいいが,それでは私が理解したことにはならない.いつまでも理解できた感じにはならない.彼らを少しでも理解したと思えるには,多面的な思考法で様々に捉えてみて,そうして見えてきた一面の総体を捉えればいいだろう.
