今まで生きてきた結果が今の私だから,成功したと考えても失敗していると考えてもいい.そこで,失敗していると考えてみる.正直なところ,私は生きている感覚がない.子供の頃から成人するまでくらいの頃は,この街に住んでいる確実で具体的な感覚があった.今は,自分が何か抽象度の高い精神を持っているかのように日々を過ごし,人と会っても街を歩いても,自分にまつわる具体的な感覚はやってこない.どこに消えたのか.
つまり,私は自分を抽象的な存在として消し去ることに成功した.18歳の時に望んだ生き方を達成したのだ.しかし,それは大きな損失でもある.社会の通り良い通貨として生きやすくなった反面,具体的な自分が消え,自分がここにいる感覚も消え,自分の過去も思い出も綺麗に消えてしまった.今を透明に生きられるが,過去にまつわる面倒なものや具体的なものを完全に手放した.成功もある面では大きな損失を伴う失敗である.
私は今までこのような人生をいいものと思ってきた.具体的な私を消し去ることが幸せだと考えてきた.地元を捨て,学生時代のつながりを捨て,友を切り,家族を持たず,妻と猫と職場と教会と地域の団体に囲まれて生きている.完全に後天的で人工的な環境である.私とは縁もゆかりもない場所で,一から縁やゆかりを作ってきたが,子供の頃のような具体的な生きている感覚を失ったので,この地域で生きている感覚にならない.
私とはなんなのか,わからなくなってしまった.過去の履歴の消えた存在,つながりのネットワークも緩やかで弱い.私が強く確かなものではない.この状態が続くとしたら,やはり子供時代の強く確かな自分はもう同じように再現できないものなのだろう.今から取り戻せるものでもない.今の私の中にある資源を使って,私自身の中に再構築しなくてはならない.今ここに生きている感覚の強さや具体性を求めてこれから生きてみる.
