私が社会委員になってから,さまざまな話を学びました.本や動画を通して,歴史的な場所への旅を通して,また礼拝説教を通して.その中で実際,私の行動は変わりました.いくつかの政党の刊行物を自分からとって読むようになり,県や市の広報誌や議会の報告,議員のレポートを捨てずに読むようになり,政治とは何で,何ができ,何ができてしまうか,故にどう見るか,そして法律の役割を考え,憲法を読み返しました.
実はそれまで社会に関する関心は私はあまり高くなく,どうせ移り変わるもの,この世は人の手では完全に良くなることはない,などと思っていたものですから,世界や地域で何が起こっても,それほど考えが湧き上がることはありませんでした.しかし,いざ考えようとすると自然と無知を自覚し,知らなければと思い直し,いろいろな話を聞くにつれ,何かできそうだし少しずつ良くすることはできるし,今こうなっているのも尽力した大勢の人がいたからで今もそう努めている人がたくさんいるということに容易に気づき,何というか情けなく申し訳なくなり自然と敬意を払うべき人が心の中に増えました.
そうなっていくにつれ,困窮する人,犯罪で裁かれた人,順調で成功しか体験していない人,その他さまざまな人生の境遇について,その原因を安易に自己責任と断定することや,それ以降振り向かず無視すること,殺人や強盗を含め犯罪を悪だと決めつけること,そういうことができなくなりました.それは同時に,政治家が悪いとか,官僚が仕事してないとか,金持ちはどうせ悪いことをしているといった,簡単な報道を見た簡単な観念が,関係しない人が考えないゆえに生じた観念に過ぎず,当事者からしたら真っ当な成り行きがあるのにそれを考慮していないだけということを痛感し,こうした勝手な想像を,仮に多数派がそう思っているとしても,少なくとも私の中からは徹底して排除していこうと思った.なぜなら,何も携わらないで傍からちょっと見聞きするくらいの見識では,選挙権を持つ身としてあるいは裁判員等として十分に役割を果たせないと感じたし,さまざまな意見や生き様や経験をまとめる立場にある人にとって,社会をどう考えどうしていくか,という視点を深めない生き方はしたくないと思ったからです.私は今公的な機関で働く身ですが,今後はもっと他の公的な役割を引き受ける生き方をしたいと思っています.
政府は,他を出し抜いて利益を上げる経営戦略のような運営ではダメだし,トップが単純なビジョンを掲げてそれに沿って一致団結して進めるようなものとは違うし,あくまで憲法を遵守しながら,統一や支配や狂信のためでなく多様性の維持と保護のために動くべきで,それはなぜかといえば多様性がより豊富なほどその生態系ないし社会は長続きすることが証明されているからです.多様なほうが進化できるし何かあった時に別の手段や方向に切り替えやすいし,何が起こるかわかりにくくはなるけどそれだけ不測の事態に自然と備えられる,つまり頑健になり強い社会になる.だから,最近広まったことかもしれないけど多様性は存続の条件だと思っています.単一の単純で画一的な皆同じ社会は脆く弱くいずれすぐ終わります.多様性を確保することは相当の手間と困難と労力を費やすことですが,楽な道こそ罠であります.なぜ神がつくった自然にこれほど多様な生き物がいるのでしょう.なぜ福音書が4種類存在し,なぜ弟子が12人いてそれぞれ皆大きく異なる人物なのでしょう.なぜ人が容易に知れないような深い真理を世界の秩序としたのでしょう.そもそもなぜ人をこれだけ異なっていけるように脳をはじめとする人体を神は創造したのでしょう.神が画一性でなく多様性を内在していることは明白で,人の脳が短絡的に持ってしまうような単一の基準や論理で神が世界をつくっていないことは当然な気がします.だから人の脳には神の知恵が捉えがたいし,また,捉えがたいように人の脳を設計し人に与えています.もし捉えられるなら人は簡単に神と同じだと思い込めてしまう.傲慢さや悲しみなどの感情も,人が神と異なることを人に知らしめ神を畏れるようにするための巧い仕組みです.神は人を神と同じものとしてつくるつもりはなかった.そのための仕組みが人体には存在している.それは人体を学んだことのあるクリスチャンにとってはわりと自然な見方や発想だと思います.
このように神は,多様であるように,同じ存在がいつどこにも存在することがないように,人をつくったのですが,人は同じと認知する仕組みも脳にはあります.数や計算,言葉や図などの記号的な思考はそういう認知の仕組みがあって成り立つものだと思います.おそらく,もとは同じ神を思うために神は人に同じと思う心をそなわせたのだろうと思います.ところが,人はそれを重要だと思い過ぎたのか,言語や計算や法則や情報を役立てて繁栄してきた面があり,その最たる結果が現代だと思います.そう考えると,今多様性が必要だとわざわざ言われるようになっているのは,そもそもはこの同じと思う心が過剰になり多様である認識が弱く失われやすい状況になっているからだと思います.要するに,これはこれと同じと簡単に思いやすく,そういう思考に染まりきってしまい,お金や地位など単一の尺度で価値を測りやすく,自分と同じだがあれは違うと考えて敵を作りやすく,分断や排除や差別や格差が簡単に蔓延して撲滅が難しくなってしまっているのだと思います.同じと見て多様性を忘れてしまうのは,神から離れてしまうことで,人の次元に閉じこもっていくことです.うまくいかなくなるのも当然です.
その上で,政治に何ができるかということです.要は基本的に多様性の方向を進むべきで,法律も個別対応が中心であるべきで,それらをあらかじめ常に整理しておき応急の対応ができるように公務の役割があり,決して抽象的な議論にとどまるものでなく,もし具体性がない政権運営が続くなら,それがどんなに理想的で望ましいことを語っていても,社会を脆弱にする危険を孕んでいます.多様性こそ神にかなうプランである.私は最低でもそう見て,複雑に見えるものごとを判断していこうと思います.
