私は,いかに人と違っていられるかばかり考えて生きてきました.人と違っていれば安心し,少しでも人と同じところを見つけると,すぐに違うものに変える,そういう考えで動いてきました.背景には,情報通信社会で個性が重視される世の中で,発想や創造性が常に問われましたし,それでも経済は安定せず,ますます差異を求め,個性化多様化の流れを早めるひとりでいました.それしか生き抜く方法がないと思っていたし,時代はどんどん変わる一方だと捉えていました.
ところが,令和になって,コロナ禍のあたりから,少し流れが変わっていることを知りました.洋服のトレンドは回らなくなり,消費は定番化固定化し,ものを持たなくなり,高価なもので差別化しないどころかそもそも差別化を嫌い,かといって皆と同じでいなくてはという圧力も弱くなってきました.外見だけでなく,内面においても,同調は求めず,共感ばかりでもなく,自ら推す側に立ち,押し付けを避け,主張は抑えめに,認められたくもあり「いいね!」で認めてあげてもいる.こういう私は若くない世代に含まれていると思うけど,親族に若い人がいない家庭では,上の世代から若い人たちのことがどう見えるか,何かよくわからないけどいい感じになっていると映るだろうと思う.私には,平成の激動を昭和の戦争に喩えて良いとすれば,令和は戦後のような印象です.このような観点で,平成を生き抜いた私から見た戦争について本稿で考察できればと思います.
まず,私が令和になって悟ったことは,私は多少でも認められたかっただけで,認める側に立とうとしてこなかったということです.人を認める立場を人の上から眺めるものだと思っていたからです.いざ私が人を認めるように努める立場に変わってから,すぐに,自分が個性的であることに飽き,人と違うことにも飽きました.人と違うことは当然で自明だったからです.イエスの弟子は12人とも異なって個性的で,それぞれが人間的です.裏切ったり,自分を守るため嘘をついたり,自殺した人もいます.思想は持たされるものです.まさかパウロもペテロも,自分があのような思想を持たされて最後まで動くことになるとは,イエスに出会うまで考えもしなかったことでしょう.環境によって人は変わる.ひとりひとりが持っているというか持たされた賜物も,あるきっかけによって活かされる.自分の賜物が人と異なっていると気付かされるとき,自分の賜物を自覚し,その方へ変わって確実なものに育っていく.
なぜこのことを話すかといえば,平成における戦争では「傷つく」がキーワードだった気がするからです.傷つき傷つけられる.傷つけられれば自尊心が問題になる.傷つければ自責と後悔が長く残る.傷つけていたかもしれないという恐怖や不安が常に伴い,傷つけば癒えるまでに時間を要する.いずれにしろいかにして綺麗に忘れられるかに平安を見る.心の傷をめぐって戦争状態にあったと言えると思います.
しかし,考えてみれば,傷つくとは,それが自分の弱い点だと気づくきっかけを得たことでもあります.軽率だった部分を自覚することができます.福音書に登場する弟子たちも皆,軽率な行いをしたからこそ,思想をそれぞれに持たされ,その後を生きました.イエスに癒されたり諭されたりした登場人物たちも,イエスの前で軽率な行いをとってしまったからこそ,おそらくその後の人生の根幹となる思想を各々持たされて生きたのだと想像します.それは,弱い自分をイエスによって発見できたからではないでしょうか.
強くなりたい,力に憧れる,そういう願いを持つ人が,令和になって増えた気がします.本当に人を守れるなら自衛官になりたいと言っていた若者を見たことがあります.強くあらねば生き抜けない,高い能力こそ生き抜く武器になる.そんな風潮が強まっている気がします.力や強さは,平成を過ぎて新たな世代が求めているものだとすれば,戦後に昭和を生きた人が経済力や豊富な物質性を求めたのと重なる気がします.平和な時代には何らかの力が求められてしまうのではと思うのです.それがまた何らかの新しい戦争を引き起こすことになるのであります.強い力を持っていると思ってしまえば,人を傷つけても鈍感でいられるからです.本当に強いときとは,自分が弱い存在だと知っているときです.ひとくきの葦のようでありながら,虚栄心からでしか動けない,惨めな存在.それが神が造った人のありさまです.もし神が何よりも強い存在だとしたら,それは神が何よりも弱くあれるからです.イエスがそれを人に見せて示してくれました.本当に強い人は,誰よりも弱い人です.その弱さから,全ての強さが出てくるのです.
傷つくことをめぐる戦争が終わってみると,傷ついた人ほど強くあれるのではないかと感じます.自分が弱い存在であることを身に染みて覚えていられるからです.戦争とは,いかに誰よりも弱くあれるかという競争だったのではと思うほどです.傷つくことも傷つけることも,恐れが伴います.自分の弱点を知ることは虚栄心に反するから嫌なのです.でも,傷の多い人ほど,弱いことを悟って,次の平和な時代を強く歩めるのだと思います.平和な時代に力が求められるのは,考えると自然な道理なのかもしれません.
終戦というのは一斉な出来事でしたから,今日で戦争が終わったのだとわかります.しかし,平成の戦争は,なんとなく感じることでしか,終わったことを知れません.一斉の終結ではないのです.それではっきりと見えないのだと思います.別に言えば,一斉に起こっていないとも言えます.人により区切って過ぎて克服して思い出のうちに去っていくようなことだからです.
私は,戦争をこのような話として捉えています.体験から実感するとしたら,です.もちろん,想像の限りでは,戦争とは人を殺すことであり,人を殺したくて殺す人はおらず,自分が殺されるから自分から殺さなくてはならない戦場で,国のためなど何かの大義名分がなければそもそも戦争をする気にはなれない軍人たちが,敵と味方という殺す殺される環境の中で,自分や仲間の命を本当に賭けてまで,人を殺すことだと思います.これに類する次元で,平成も戦争が起きていたと考えてよいなら,あちこちで頻発していたいじめや自殺や差別など,それぞれの現場が戦争の中にあったのだと捉えられます.個別の状況で出来事に憔悴した人がどれほど多くいたかを思います.人は力を得ると,力で人を傷つけます.しかし,力で破壊された街や人の心を自分の目で見たい兵士はいないでしょう.ましてや自分の力で破壊したのなら.
そうならないようにするには,弱さをいつも覚えることが大事だと思います.自分は弱いといつも思っていることです.そうする方法は私たちにとっては簡単です.イエスキリストの十字架を思えばいいのです.誰よりも弱くいてくださった.そうして,人の何よりの弱みである「死」に打ち勝つ強さを与えられたのです.私は強い,と思っているとき,その強さは錯覚に過ぎないのではないか,そう自分を見つめることです.イエスはどこまでも弱くあろうとしましたから.どこまでも弱くある,神はきっとそんな性質を持つ存在なのです.だからこそ,神は全能で全知の強さを永遠のものにしているのでしょう.私たちは誰も,神ほどは弱くなれません.平和は弱さを覚える人々の間にあることを思います.
人の脳は,敵を裁くと強い快楽を得てしまうために,どこかで常に敵を持ちたいと思ってしまう性質があるそうです.でもだからこそイエスはあなたの敵を愛しなさいと教えたのだと思います.あなたが敵と見ている人はあなたが敵を欲するその欲の対象として見ているだけで,本当は敵でもなんでもない愛すべき人なんだよと.戦後も思想が力を持っているかのように見えた時代が続きました.今もそんな面はあります.しかし,思想とは,人の弱さを表明したものです.考え方の違いとは,人の弱さの違いです.だから,守られなければならない.どんなに強い立場にある人であろうと,人はみな弱いです.だから,考え方は人ではなく法で守られなくてはならない.それぞれに個性的な弱さを持たされていることは,聖書でも自然な人のあり方だと思うのです.弱さに気づき,弱くあれと言われる社会は,きっと平和な社会です.人と違う弱さをもっと求めるくらいの社会にしたいものです.
