少し危うい状態にある.「イエスキリストは私たちが磔にした」とよくクリスチャンは語るが,それって私たちは人殺しってことなのか.私も人を殺そうとしたことがあり,20歳で逮捕されている.イエスキリストはその殺人の私たちの罪を赦した.それってどういうことか.どう受け止めたらいいか.わからなくなってしまった.私が殺そうとした人を,私は許していない.殺されようとしていた人も,私を許していない.殺人ってそういう罪なんだと思ってた.でも,イエスキリストは赦した.私たちはイエスを殺してもよかったのか.
正直に言えば,私はイエスを許していない.なぜイエスはほいほいと殺されたのか.自ら十字架を担いで丘を上っていた.自ら殺されようと考えていた.そうではないのか.これが私の思い違いだといいのだが,私はそうとしか考えることができない.イエスが私を悩ませるのは,イエスが人類を赦したことのためでなく,私がイエスを許せないからなのだ.殺されようとした人は殺した人にどれほどの苦痛と悩みを与え続けるものか知っているのだろうか.知っているのならそこに生前の恨みや憎しみを感じる.殺した人は殺された人を殺しただけの感情があったろう.殺された人は殺した人を許しているかどうかわかるものではない.イエスは赦した.殺された人の中には,殺した人を許す人もいると思う.もし私が今後殺されても,私を殺した人を私は許すだろう.私は殺されるだけのことをした罪深い人だから.でも,私を殺した人は私に許されてもその苦しみや悩みから解放されることなどあるだろうか.ないと思う.私は生涯の苦しみを与えてしまう.私は許すというのに.
似たようなことをイエスに見てしまう.イエスを殺した私は,イエスを殺したことをずっと悲しむ.私の手も口も頭も震える.礼拝で毎回涙を流しているが,いつまでも涙は枯れないだろう.イエスはなぜ自分から殺されようとしたんだよ.もう一度記す:私が殺そうとした人を,私は許していない.殺されようとしていた人も,私を許していない.イエスが次元の違う,神性を持つ存在だと思わなければ,私はこれからやっていけない.そう思えたとしても,私とその人との関係が自分で情けなさすぎてやはり生きていられない.
