先週、教会を去った。牧師から離れた。そうしなくては、わたしが死んでしまう。牧師は言葉の力が強い。いずれ自分に跳ね返ってくると思うが、すでにそうであるのかもしれない。わたしは牧師ほか、教会の人たちと連絡を遮断している。今、言葉に触れると、わたしは壊れてしまう。それに、わたしは声が出ない。耳も聞こえがよくない。今は、ひとりでいるべきときだ。
今日、ふと思ったのだが、牧師が、身の危険を訴え出るのではという恐れだ。牧師は60代とはいえ女性だし、ひとり暮らしである。牧師館は施錠可能だが、肥満で敏捷に動けない中で、女ひとりでの生活である、わたしと街で遭遇することも恐れているのではないか、というわたしの想像(内実は杞憂)である。わたしだって牧師と街で遭遇することは怖い。でも、遭遇したからといって、何か話すことはしない。もう他人の顔をするだけだ。それに、わたしが牧師館まで恨みを持って、、なんて行動をするとでも思うだろうか。もしそう思われていたら、わたしは相当疑われている。
百歩譲って、わたしが牧師を殺めたいと思ったとしよう。でも、どうして牧師への恨みを一時的に晴らすために、わたしの人生を無にするとでも思うだろうか。わたしは、わたし自身の人生はわたし自身で終わらせうる、という思想は持っている。でも、人の人生を終わらせることに何かいい思いは決して持っていないし、なぜ人を、そんな人を殺めるだけのことで、わたしの人生を潰さなくてはならないか。そんな馬鹿げたことをわたしがするとでも思うのか。牧師は牧師自身で相応に苦しむべきで、わたしがそんな人のためにわたしの人生を抛り投げたくない。
わたしの人生はわたしで責任を持つ。当たり前だ。もし牧師が、わたしを殺意を持つなどと想定し恐れ、教会内や教団に訴え出るとすれば、牧師が疲れているだけである。わたしだって疲弊している。難聴に失声症、仕事も休みがちだ。お互いさまだ。牧師は恨まれる職業だということくらい、知っているのが俗世間の常識である。外の世界は荒れるに任せよ、という格言を胸に、明日もストレスと格闘して働きにいく。牧師の言葉と行い、存在、その他に、強迫されながら。
