3月から、意外なことに人生がかなり大きく動き、多くを経験している。そして、今日一段落ついた。昨日、月初にものを買ったからかもしれないし、徒歩通勤をやめバス通勤となって疲労が軽くなったからかもしれない。あるいは、思考をまとめたことで長年の教会での圧縮から自由になったからかもしれないし、弁当を作ったりスーパーで半額の食料で満腹になるまで食事したからかもしれない。今日は心が楽で解放された感じがする。この数ヶ月の経験から学び、わたしの人生の態度として据えたことを、以下にまとめておこう。
・離れること
当事者になっていては、相手が見えないし、敵に見えてしまう。相手がわたしを敵と見たら、わたしも敵はどこにいるか探してしまう。結局、見えないうちは、なにをしても渦中に置かれるだけで、なにも解けない。要塞を本丸から攻める愚かさでなく、周囲を固めていくうちに、いつの間にか崩落しているのである。エリコのラッパはそういう話だと思う。
・真実は常に分からないということ
人に神のことなんかわかるはずがない、と常に念頭に置くことは大事である。そうでないと、人の見解を信じ、主張に加わり、そのうち他を排斥してしまう。人は人のなすことの範囲内をわかるだけである。神について云々することは許されているとはいえ、神の真実を説くような人間には、たとえ牧師であろうと警戒した方がいい。おそらくは、それを聞く側がすでに依存し、何かを放棄している。
・理性は部分的だということ
考えてわかったことが、全ての人に当てはまるか、という素朴な問いを、カントは否定的に証明している。理性は普遍性を持つのでなく、部分性を持つ。部分的に有効なのである。成文法は国内で、自然法は国際的に有効であるが、自然法は人の性質の上で定めなくてはならないことであって、普遍性を持つという意味にはならない。理性は部分であるから、神を捉えられるとしても一部分である。
・過剰な知性によって蔑ろにされるものが本当は大事ということ
知識を蓄えるだけでは喜びが失われる。知性を働かせても、知性に傲慢さが加わるや否や、知性は世界の一部を見なくなる。全てを知ることは、脳の性能から言って不可能だからだ。それで抽象的な概念や論理で考えようとするのだが、肝心の心や伴う感情や人生の意味は、果たして知性は得られるだろうか。難しいだろう。知性は人間の一部分であり、人間の全てでは決してないはずだ。
・考えを書き下し囚われなくなったら活き活きと動くこと
考え詰めていくばかりでも、良い文章が書けることがある。悩み考えていたことが長いほど、その文章は平易になりうる。それを理解の程度が深いといわれる。しかし、当の本人にしてみれば、少しも理解したという感じがない。むしろ、それはわかったとは言えない、ということが言えてくる。要するに、考えても分からないことは、考えても全く分かり切るときなど来ない。家を出て街を歩きたい。
