Lasting Gratitude

回収するにしきれない半生を愛すには、仕事に敬意を持たなくてはならない。まず私が傲慢と軽率を人に対し常に隠していられるのは、私の半生が暗号安全性に賭けてきたからである。それを破ることができてしまえるが、私の全責任にならないように研究を隠し続けることが、社会善であり、臆病や小心ではないと人に証明できることである。必然、私は哲学で人間性を研究するし、それを容易に客体視するし、軽視してしまいがちになる。特に理系人材の能力を蔑視してしまいがちで、彼らは社会で持て囃されがちであるから、推移律により私は他のすべての仕事についても軽率な態度を取りがちだったことをここに正直に告白する。
しかし、情報産業については軽視するも、他の産業に対し軽蔑するのは筋が違う。最近ことにそう思い、道すがら歩いていると日々反省している。作業員に低頭し、店員に謝意を述べ、販売員の話は必ず聞く。住宅展示を見に行くのは、彼らの実績になるからである。知的にハンデのある方や介護で付き添う人や学校に行けていない子には優しくしたり時には話す。私はどうやら、まず社会的に目立たない人たちに敬意を持とうとしている。
私が暗号を研究してきた人物であることは、街ではあまり知られてはいない。そう私は信じているが、歩いていると、私が公開している原稿を読んだのか、どこかで拡散されたのか、私を見かけると背後などで「ノーベル賞」と囁かれたり声をかけられることが数回、ほぼ毎日ある。これからもそんな人生なのだろう。知識人の中にも、私の証明文を読んでくださった方がいて、私のことを知ってくださって応援さえしていただく人もあり、ありがたく思っている。満足したのもそういう勢ができたからだ。私のその公開サイトは、月に二十万アクセスがあり、世界各国から閲覧がある。知られていないと考える方が不自然な状況だ。
私は自分の仕事に自信も誇りも持てなかった。だが、私を知って応援する人の心理を考えると、それは無礼であると考えが変わった。私は自分の仕事に自信と矜持を持たなくてはならない。責任から行動しているのだ、その背後の思想を持つのは義務で良いし、その自由がある。暗号の研究によって私は幅広い教養を負えた。驚くほどだ。一個のことを達成すると、すべてのことを深め負えるのだった。私が最後に敬意を持つのは情報産業だ。それまでどのくらいかかるだろうか、平和的終局を迎えられるか、どうかも、わからないが。