Personal Optimization

人による。これこそ社会契約論がたどりついた自由な社会の姿だ。思想も信条も宗教も、自由にして良いと。つまり、それらを強制してはいけないし、干渉してもいけないのだという。ならば、思想も信条も宗教も、その意義の半分を失うだろう。信仰は個人主義であり、個人と神との関わりであり、敵を愛しても何かするわけでもないほうが良い。人に何かする自由はない。良心の自由はあるから、善意から関わることはできても、常識で関わることはできない。何をしいても良い、ただし、人の自由に関して迷惑をかけない限りにおいて。JSミル。
社会がこうである以上、また、私も社会で生きるほかない以上、私もこの原則を否まずに最適化して生きた方が良いのだろう。私も何を考えても良く、何かをしなくても良い。人が拒んだ場合は謝り、関係の継続を諦めるくらいでないとならない。今の人は若い層にも、特に思想や言論に関して、自由が拡大しているので、私もまた何も言われない代わりに、私も何も言えない実際を抱えている。
私でもできることを考えた。私は知恵を蒔いておくことにしたい。こう考えた人がここにいる。そのような事実を言葉にして公開しておきたいのだ。一昔前のように、有名な作家として活躍する時代ではない。なぜかといえば、思想や信条や言論に、若い人は特に自分を囲っているので、変えさせることはできないし許されない、と主張するだろう。それが思想や信条や言論の自由を拡大する現代の姿なのだ。他人の自由に迷惑をかけなければ、何を考えても良く、何を表しても良いのだ。
感化される自由、追随する自由、尊敬する自由は、若い人にも認められている。憲法で保障するまでもない。そういった心情になるには、若い層を認めてあげなくてはならないだろう。深く考える義務を果たしていない若い人の何をいつ認めるかについては、その後の深化に関わってしまうので、慎重にならなくてはならないが、憲法のように、誰かが守らなくてはならないものについては、率先して正統な言論が必要である。考えればそこに帰結する数学の証明のような思考を日頃する人が、減ってしまうことを、私は懸念している。