Mercy for Youngsters

若い人を大目に見るということ。
最近、若い人が上手いことを占めているのに苛立つことがある。既存であるかのようにインフラが整っている街で、ただ乗りして感謝することも考えず、享楽的に生きている若者である。もちろん、企業に入って自分に与えられた仕事を真剣にこなす若者もいるから、どこでそんなに差がついているのかわからない。彼らとて、休日に遊ぶことがうまくなく、黒いパンツに白いシャツで一人で街を歩いて世の不条理について考えて過ごしているかも知れない。労働が社会や経済を成り立たせているというのに、買うという契約だけで社会と繋がろうとすることのなんと浅はかなことだろう。これは数年前までの自分にも言ってやりたい。
自分の良いように過ごせば、その分、罰せられると思わないか。実際に罰せられているだろう。低給料、情弱、知識隔離によって貧困に閉じ込められるのだから。彼らを救おうとするビジネスもあるが、一度根を張った怠惰や愚昧はそう簡単に一人前の労働者にはできない。代わりに、世間の道理を教えることで貧窮を納得させることしかできない。私はそう考えて、社会や経済の理論を今夙に学んでいる。
私の部屋もすっかり物財に飽和した。多くの労働の価値を買ったからだ。これらを買うお金がなく、これらを使う知識もない、怠慢な貧困者像が、自省のない若者像と、結びついてしまう。元々、低い知能や高すぎる知能のせいで、社会生活に支障を来していた人も少なくない。私も教育の機会を精神病で失い、いまだにこのような思考程度のことを考え続けている。もうやめたいと思うばかりだが、やめると本当に社会から外されてしまう気がする。それでも良いとは思うが、そうなったら本当にただ乗り者になる。そうなるにはまだ早すぎる。
私のようになってほしくない。ただ、良い会社に入ることは批判されている。だが、芯のある人はそうした方が幸せだろうし、そうできない人はそうしなくても幸せな仕事が見つかるだろう。私が人生の選択を誤っただけだ。私はずっと考えるだろう。余計なことを。そして生涯を閉じるのだ。何もしなかった人として、皆から恨まれて終わる。やったことと言えば、暗号界隈を乱す数学の証明を成して発表しなかったことくらいなのだ。せめて倫理的に生きたいと思う。