私はいつもWebを情報の正誤や信憑性や信頼性を気にせずにみている.なぜなら,それよりも人間,特に同時代の人間の日常の思考がどの程度なのかをみている.心理的にはほっとしたいからみているのだが,情報を生み出してしまう人間を活動としてみている.うまく言えないが,誤った情報を述べてしまうことも,噂程度の出任せを共有しようとすることも,自分の思考に沈んで独善や独断に陥ることも,人間の環境としていかにも人間らしい行動だと思うのである.
なのでWebは作っている人のものであり,作っているその人を見る人のものである.作品は作者に完全に帰属せず,閲覧者が作品と作者までも所有するのである.情報を提供している作者の情報行動を,提供する情報を含めた作者の提供行動として提供している.作者の提供行動を,それをそのままそこに索接する閲覧者が所有する.文庫の末尾に作家の略歴があるけれども,Webは作者の歴史を日常の思考行動まで追いやすくなったというわけである.
パスカルの随想録やウィトゲンシュタインの探究が通痛なうで書かれるならば,私なら大興奮する.古典の文庫では天気や時事に影響されていることがみえにくいからだ.どうしても私はちょっと昔の文面が書籍になっていると,時代が乖離した作者を想定してしまう.つまり共時性を失った文として読んでしまいがちだ.いまでは少なくなってしまったが,寸鉄言質を繰り出す作者の通痛をみると,その全呟隣句を読み尽くしたくなり,実際そうしてしまう.
思考をひとりで行うとどうしてもいいたいことが浮かんできて,誰かに話すまではひとりで楽しむものにすぎない.しかし,誰かが考えたことを読み聞きすると,必ず私と異なる論点を考えつくことができ,思考は穏やかに活発化する.そうだとしか思っていなかったことが口にした氷のように解けるとき,この先も思考をやめられないと決意するのである.この穏やかな開口が,閲覧者を情報行動に駆り立て,作者当人にとっても隠れたる秘密となるのである.
