高校卒業までに持った「偏見」は社会人になってもあまり変化することがなく,自分の常識となってしまっている.地学も教えた生物の先生が,自と他の境界または区別はどこにあるか,という問いを宿題としたことがあり,私は「自分が『ここまでが自分』と定義したところまでが自分」と簡潔な小論文にして提出した.この課題はその高校の有名な問題で,高校で深く知的な講義を受けられることに文化的驚愕を受けたものだった.その先生は授業で私の回答を紹介してくださり,たいそう自信とした覚えがある.
その高校は私の印象では学風は大学と云ってよく,のちに国立大学に入学してもその高校ほど魅力は感じなかった.その国立大学は世間では入学も難しい有名校とされるが,高校があまりにもあまりにもだったので,正直あまり価値がわからないままだ.受験勉強ばかりの高校を出た人には悪いけれど,私は受験勉強などほぼしなかった.勉強したほど合格した大学に愛着を持つかもしれない.私は学問できる環境で選んだだけで,大学自体に愛着はまったくない.
高校2年の時,同級生に,「みんなすごい大学に挑戦して,立派な人になるんでしょう,ぼくはそうはなりたくないんだ,主夫をしながら休日に論文を読むために生活できるくらい働ければいいと思っている.本気でそうなんだよ,だからもうここにいる意味はないんだ.みんながんばってくれな.」と伝えて私は高校を去り,善い人生を送ることに関心を向けた.美的価値と倫理的価値,哲学,数学,音楽を美術学校に通いながら独学し,受験勉強しなくても試験問題に回答できるくらいの素養はついていた.
いまでも,学んだことは社会で役に立たない,と捉えることは多い.そういった否定的で実用的な見方をすることがしばしばだ.しかし,他と比べ,語彙や表現,構成や設計感覚などで自然といいものができるとき,あるいは人生の余裕をまだ若いのに大きく持てていることを思うとき,なるほど自分で人格を彫琢した一年半があったからこうなのだろうなと思うのである.この一年半は個性的な時間なので,誰も知らない.秘密の一年半を抱えたままだからこそ,これからの人生も楽しんでいける.自分で獲得した常識は生涯の宝である.
