あまり人には言えないし,言ったこともないけれど,自分には贅沢な問題がある.贅沢というのは,自分の人生を使って実験している,ある問題のことである.自分の人生をその問題を通して見ているので,ある人には自分の人生を空費しているかのように映るだろう.もっと楽しいことがあるのではないか,もっと稼いだり,もっと働いたほうが良いのではないか,そうすぐに勧める人は多くいるだろう.だからあまり人には言えない.
その抱えている問題とは,精神の量が多いか,それとも少なく軽いか,そのどちらが良い生き方なのか,という問題だ.精神の量とは考える量と定義しても良いし,意識の強さだとしても良い.意識の度が強い自意識過剰な生き方か,救われて軽妙洒脱な生き方か,どちらが生きがいの強さにとって,あるいは神のみ心にかなった,生き方なのかという問題だと言える.これは信仰の問題でもある.
精神の量は時期によって変わる.若く未熟な時期は自意識が強く,したがって絶望が深いものだろうし,身体が軽い時期はすでに完成に近いか完成していて,生き方が定まり始めているだろう.精神の量が多かった時期を幸福として経験すると,軽くなった頃に重かった頃をいい時代だったと追想するだろうし,思考が多かった時期を苦しかったと覚えていれば,単純な生活に変化した現在を幸福になったと認めるだろう.
したがって,精神の量は人生の時期によって変化することは明らかだが,幸福と直結しているかといえば,そう単純な連結でもなく,問題はこれから先も精神の量の変動があるのだろうかということだ.もう軽くなっているので今後変化がないのではないかと予想させられているのだが.人生は生きてみないとわからないものだと思っておく.
