大学で知識が空で頭に入っていなくてもすぐに探せれば知識を持っていることと同じだ,と云う名言を教わり,それ以降本を読むときはどこの本にどのような記述があるかを中心に覚えるようになってしまった.スマホを持ってからその習慣さえ変化し,組織化を検索機関に頼ってしまい,検索語をたくさん持てるように本やウェブを読むようになった.「単語は知識を引き出せる」というわけだ.いずれは「知識=単語」のような認識方法になってしまいかねないが,じきにそうなってしまうに違いないのだ.
漢字を学んでいた時は,辞典を何度通読しても,私には全部はわからない,という謙虚さを根拠付きで抱いていたものだが,高校で英英辞典を全訳した時,全部を知れる,という観念を抱いてしまい,大学で図書館とウェブを酷使していくうちに,全部を知って初めて理解したと言える,と障壁を高く作ってしまった.それ以来,わかったということばを滅多に使えなくなり,自分は何を知るか?と仏文人のようなスタンスを投げかけるようになっている.自分が何を知っているというのか.
知識を持つことに価値がなくなっていく,という言説を見かける.ウェブが発展する影響で,という文脈である.そこにはしばしば次の但し書きがある.「知識を生み出すことは限りなく行われる」と.私たちは未来にも知識の追究を怠りなく行うだろうと云う見方だ.車輪の再発明をせずに知識を生むには膨大な知識処理が必要で,誰かが成した知識をまとめる時間も必要だろう.時間をかけた割にいくつかの知識しか生めないことに対する幾分の寛容さも必要だ.そもそも知識を所有しない人々は,現行の検索機関ではその知識に索接することもできないだろう.
知識は持っているに限る.知っていれば調べる時間が短縮され,索接できる知識が増し,知識と知識の融合による知識生産が行える.幸い,検索機関による知識の爆発的生産を象徴する現代とはいえ,まだまだ融合的生産ができる知識領域は多い.しばらく私たちは知識を所有する価値を高めていける.勉強に費やす時間を将来のための投資として位置づけるならなおさらである.知識を探す方法,知識を組み合わせる方法,知識を流通させる方法.こういった動的な知識の科学的手法を,大学で学べたのは良かったと振り返ってみた.
