この情報通信社会,つい自分の知っていることを自慢してしまう.自分にはもう知ることがないと思ってしまう.自分はどんな知識でもすぐに探して理解できる頭脳を持っていて,知識とは速さであり,情報が知識になっていく過程が何より面白い,こう思いがちだ.本当は,自分ひとりの知っていることなぞこれっぽっちもなく,フランスのモラリストが宣言していたように,私が何を知っているというのか,と反語を突き上げたくなる時間をどれほど持てるかということだ.私は何も知らない,この考えが,空虚な吐露ではもちろんなく,生涯学習の宣言として使われた時代があったことを思い出す.
もし自分が何でも知っているなら,まず検索する必要がない.もし自分が何でも理解できるなら,なんでも参考書を読めば試験に合格するはずだ.でも実際は同じ資格試験に何度も不合格し,取得を諦めた試験もあったではないか.業務中も調べてばかりだし,数秒前の指示も覚えておくことさえできないではないか.ウェブのことなら何でも知っているのね!とのちやほやは,ちやほやにすぎず,本当の闘いはそれからだ.誰とも競わず,自分の向上を望み,制作し続ける.その人生は素晴らしいし,楽しいし,仕事になっているのは幸福だ.
この「自分は知っている」という無知はどのように生じるのだろう.記号としての文字はその犯人であろう.文字は読める.意味が分からなくても,考えることがなくても,読めてしまう.文字を使うことで,精神活動を大分省いている.いや,逃している.きらきらした感性が訪れるかもしれない,一生を幸福にする癒しがあるかもしれない,片時も忘れないほど夢中になれる発見があるかもしれない,にもかかわらず,私たちは読んでしまい見過ごし続ける.すぐ近くに大切なものがあるのに,目に見えないからと云ってさっと読んでさよならする.
これは文字に限らず,図や絵や音も,動くものたちも,数式もデザインもプログラムも,そうだろう.私たちは大切なものに囲まれて暮らしている.自分に合わないものとは距離を置けるし,空間から存在を外しておける.それで思い入れのあるものだけを置いて,自分はこれについてこれこれを知っている,と考えて,すべて知った気になってしまう.いともたやすくそうなりうる.それは悪いことではないかもしれないが,滑稽なことではある.人間が滑稽なものになることも,悪いことではないかもしれないが,ひょっとすると金の卵が見つかる坩堝にあるかもしれず,周りは放っておくのだ.静かに,易々と.

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