帰宅してフランスの一流人の本を読む夜.パスカル,ヴァレリー,ブーレーズ.退屈,絵画,作曲の章を通して考察に耽る.彼らの時代に存在しなかったもののひとつが,ウェブだ.ウェブは文字もグラフィクスも,絵や写真や映画も,同じキャンバスの中に存在する.そして,ヴァレリーが危惧したような構成技術の衰退を,ウェブ職人たちが回復させる,ウェブはそんなテクノロジーである.
というのもウェブはレイアウトなしでは組めない代物なのだ.四角い画面にメディアのパーツを一揃いに整理するとき,直線や比率や矩長,色彩または音声,時間をも,構成する.しかも,いずれも数理的厳格さを要求する.絵具の柔らかな画面,指揮者の身振り,合唱の和音の偶然は,ウェブには持たれない.ウェブは何時でも同じ画面を見せ,同じ動きを保証し,等しくアクセスできて初めて安心させる.
ウェブは鑑賞される域には達していないとする見方がある.機能的であることを標榜するだけのサイト,コンテンツの専門性や希少性だけで読者を誘引するサイト,単に広告をクリックさせるだけが目的のサイトが,多く見つかる.ウェブの拡散期に見られる現象として後世語られよう.効率的,売名的,現金的なこの時代の雰囲気は,ウェブの技術的普及が扇った風潮だと考えたくなる.
ウェブの未来が開拓されると,ますますデバイスは活用され,テクノロジーの輪郭はますます拡がる.見る者,使う者によって,配置された道具,鑑賞される作品,世俗的手段と,さまざまな顔を持たせる.紙や画板や譜面を兼ね,単に芸術媒体ではない,この側面が,ウェブを多様に使わせる.情報を構成する際,情報を隠匿するなり破裂させるなり,構成術も均整ばかりでない.よりウェブでありうるアートは,ウェブよりウェブらしいだろう.

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