些か怠い今週は,年が明けて初めての週5日勤務の週だった.何となく仕事に身が入らず,休憩を多くとり,身の回りの整理や準備を多くした.リンゴ酢やAPなど,新しいことをいくつか始めた週でもあり,変調していく生活の律動を好演する身振りが問われる.いつも楽しむことを大切に,無理をしないことを心懸け,暮らしを前進させる案を練る.基礎となる態度は確立した.だからこの姿勢にさらに積み上げる,そういう歳になりつつある.
今まで空を描くように考えてきたことが,実は非常な意味を持っていたこと,或いは達成が実は困難だったこと,そういった常識的な物差しで物事を測れるようになり,恵まれてきた事実を受け止めるようになった.それは私本人の努力と形容されるが,本人にとれば,そこに辞典があったから,そこにクラシックCDがあったから,そんな用意された環境がすべてだったと思うほかない.自分の力ではない,とはっきり考える.
だからこの今週の気怠さは,今まで無我に快走してきた半生を,出来すぎた物語として述懐することの厖大さ,振り返り得られる濃度と未来の希望の密度とを比較した結果に対する眩暈,或いは人生を俯瞰し得る年齢に到達した一方,永い余生の霧中へ飛び込み消え去ろうとする外ない哀しさ,それらの綜合として襲われる形式である.どうも正体が掴めないわけである.
この単純ではない重合は,齢を重ねるにつれ多く圧し掛かってくる軽佻化の誘いであろう.はっきりと精神を保たねばならぬ.思考することはくっきり明徴に思考し,思考せざる物事はしっかり弁別し,思考できぬことは信仰するほかないと悟ること.そんな世界に突き進もうとしているわけだ.この僅かな囁きに遠くの晩餐から救いが宣べられる.恐れることはない,と.将に肯じて茲に在る我を見備う.

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