勉強とは退屈なものだろうか.脳天が痺れるくらい刺激を受けた学問が,学生時代は多かった.それは重厚な本の一文だったり,本が扱うテーマだったり,いろいろなシリーズに繰り返し登場するモチーフだったりした.本は面白いから売っているのであり,退屈な本は多く刷けない.書斎にある本たちは,少なくとも世間の多くの人が見ても面白い本だろう,だからその本に学ぶことは面白いはずである.
しかし,今自分は学び方を忘れた学生のような日々を送っている.正直,面白いことは分かっていても,先に進めないし,ある頁を時間を忘れて読み続けてしまう.そう,数百頁もある本は,到底読み切れない速度で読むようになってしまった.丁寧に字句を追い,提供される概念を掴もうとし,図や装丁の美しいところを眺めて終わる.文字性,哲学性,デザイン性の3通りの読み方を同時に行っているので,単純に読み進めることができなくなってしまった.
あれだけ学生時代から本を読んできた人間である,読み方がまるで変ってしまったことをしかし嘆いてばかりはいられない.なんとなく読み方が進化したというか,学生時代の読み方も確かに素晴らしいものがあった,独特の引っ掛かりを作り,本の間を繋げようと努め,新しい概念を歓迎した.その好奇心たるや,鋭く先を見て,自分の人生で最高の創造性を試した時期だった.
そんな時期を迎えられたことは人生の定礎的僥倖である.その上に積む礎石を今磨いているというわけだ.何を積むのか自分では分かっていない.それはまだ分からないだけかもしれないし,今後ずっと自分にはわかりようのないことなのかもしれない.それでも毎日本は開くし,数時間は「読んで」いる.しかし,得るものは以前と違う.読書感想文を書かせたら以前と全く異なる視点を持つだろう.進化は退化とは限らない.退屈が無駄ではないように.退屈は進化する.

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