好奇心に短所があるとしたら,自分の欲求を満たすことが第一義になることだと思う.知的欲求は知識を創造し学問を推進するので,それを持つことは大変好ましいこととされる時代に今生きている.ウェブはそんな欲求を満たすには好都合で,検索に飽きず発信を続ける人は好奇心に駆られている.私もそのひとりだ.しかし,そんな探究を数十年続けていると,ある程度満足してしまい,次の段階へ進むことになる.
それは,自分のためではなくて誰かのための好奇心,という概念だ.英語で”curious for”という言い回しはないように,「誰かのために知りたがる」という概念は恐らくこの現代だからこそ成立する.「私が知る」という一人称の営みは,専門家を増やし,読書や研究を蛸壺化してきたけれども,多分それでは好奇心の半分しか面白くない.誰かのため,検索してくる同じ好奇心を持った誰かのために,知りたがるのだ.
知ったことを記事にしてウェブに上げる.後世のために新しい概念を作る.訪れる人のために辿りやすいサイトを設計する.そうした「知りたがる」を「誰か」のために役立てる方法は沢山あるし,すでにそうしてより自由に知りたがるようになった人物は少なくない.I’m curious for someone rather than for myself. と考える人物だって増えつつある.専門家のマインドセットもきっと変化してきているはず.
公共図書館の原則のひとつに「自由に真理を探究できる権利を守る」ということがある.知的探求は必ず誰かの悩みを捉え,誰かを自由に解放する.ウェブはそのような相互解放のフィールドであるだろう.抱えた問題は先人が考えている.多くの問題はそうである.その先人に学ぶとき,もっと具体的に,もっと深く,もっと実践的に進むことができる.それこそ自由な自分の獲得,つまり自由な人生そのものである.

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