すぐにできなくて当然.教会で聞く説教を実践しても,すぐにできなくてよい.そう牧師は付言する.何度も失敗し,ゆえに許され,また許し,それを通して互いに許し合うことを学ぶ.人間はサイコロを振って自由意志で行動する.それゆえ何度も失敗するし,学び取っても失敗しないとも限らない.何が失敗となるか,時代によっても個人史によっても定義さえできない.経験の切り取り方は個性的でもある.
すぐに理解することが,仕事で求められるときがある.せっかく時間を差し出して説明して頂いたのに,理解できないことがある.優れており仕事もできる人のはずなのに,説明が理解できない.そういうとき,私には二つの考えが浮かぶ.自分は愚かである.そして,すぐに分からなくて当然.理解の確かさを疑うことで,理解に確実性の軸を導入する,これこそ人間がサイコロを振るということだ.
確かに理解したと思える事柄があるとき,それがどうして確かな理解をもたらしたかと検討することは,その理解がどれほど確かなのか玩味するうえで重要な問いだ.理解しようとしないのはいけない.でも完全に理解した思うのも同じくらいよくない.物事は恐らく蓋然的であり,活動し理解するためにサイコロを振ることしかできない人間の性として,人間に確からしいことなど得られないと開き直るのも間違っていないだろう.
すぐにできると考える.それをすぐに行えるのはなぜだろう.すぐに行えない.行えないのはなぜだろう.最近考えることといったらその周りを堂々巡っているだけだ.説明を聞いてすぐにでも生活に取り入れる教えと,もうほとんど間違った理解しか得られない説明.この差は何に由来するのだろう.答えはきっと簡単なところにある.すぐ手近なところにある.それが見えない.すぐには見えないというわけだ.

コメントを残す