私が報連相で注意を受ける場合のパターンは決まっている.私の判断が入っている場合だ.そして,それが言語化されず上司に伝わらないまま実行してしまうからだ.私にとって会議は参考程度のもので,私の実践には私の結論を入れ,私の責任で実行する.こんな考えで社会人になっている.ここが問題の根源だ.私は遂に突き止めた.会議は双方にとっての結論を出す場で,私の実践には会議の結論を入れ,上司の責任で実行する.これがより正しい認識だ.
繰り返し書いておきたい.会議は出席者にとっての結論を出す場で,実行する内容は話し合いの結論であり,責任は上司がとる.だから私に不足している能力は,会議で意見を展開する「敏捷な思考」と,自分が納得する提案を会議の場で発言する「言語化能力」である.別に私は思考能力が劣っているわけでもなく,アイデアが足りないのでも実行力がないのでもない.会議の場で発言できるくらいの思考の速さと発話の能力,それが欠けている.それだけだ.
こうした自己分析は役に立つ.より正しく分析できるようになるまでにどういう過程をたどるか,後々のために残しておきたいと思い,きょうは立て続けに記事にした.後で読むとき,未来の自分なら,メタな視点から,癖と骨を分かってくれると思う.きょうは自分の困っていることを見並べて,単純なパターンを掴んだ.法則の発見である.理学の威力.私も私の周囲も,法則で動いている.という世界観である.
より理解できると安心も生まれる.安心できるものが固まると先へ進める.これを経験というのだと思う.こうして社会人の経験を研鑽していくと,老年になっても人が絶えない.いろいろ集まる人になれる.今はまだ当事者としては分からないけど,そういう老い方を私はしたい.自分の困難をクリアする認識を得て壁を超える.そうし続けていければ,仕事も続くし生活も安定する.ついこの前までとても知らなかった話である.

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