何か書くことが浮かぶと,それは語の結合であり,結論であり導入の文であり,主題や要旨であるのだけど,いくらかまとまって忘れずにいることができたとき初めて文になる.私の思い浮かぶ内容の半分以上は書き留められる.昔は1割も残せなかったけど,訓練して半分は掬えるようになれた.だから私がこの部録で大量のテキストを生産している様子を異様に瞠る人があったら,その実態は斯様な状況である.
私は名文家ではない.いや,私が好きな文を私はいくつも生み出すことがすでにできた.なにとはなしに道を歩いていても,台所で調理していても,浴槽の中に居ても,ときどき思い出す.名文は自分で思いつくもので,私はよその人の名文をありがたがる人物ではない.Twitterは短文の寸鉄至言,部録は日記形式の随筆,ウェブは訴求力を重視する自由律.ウェブメディアそれぞれで形式は異なってくる.
私には大して知識はない.ものすごくあるように見えるという人もいるし,え本当にと疑ってくる人もいる.中身が空疎だと見抜く人もいるし,ポジティブで肯定的な愛を読み取る人もいる.ひとそれぞれ.しかし,いろんな人に見てもらっての感想は,私には大して知識がないということだ.本当にそうである.単語の意味や言葉遣いや文法など義務教育で教わったようないくつかの基本しか私は知らない.
ほとんど持っていなくても知らなくても,森羅万象を知ろうとすることはできるのだ.この人間らしい探究が世界を次の歴史に導いてきたのだし,今までもこれからもそうである.私は自分の満足のためだけでなく,誰かのために研究している面もある.何に役立つのか少し考えているが,将来確実に役に立つことを保証したい.同じことを考えたことがある人が現れて,私の考察の何歩も先を進んでくれたらこの上ない喜びだ.

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