自分が何者か.高校生の時からずっと考えるようにしていることのひとつである.進学校中退後,美術建築の学校で建築水彩や立体構成の修行をしていた時,哲学や文学や古典音楽に出合った.20歳に満たない私には理解が及ばないばかりだったが,20世紀初頭の欧州や戦後安保の日本は特に記憶に残り,大人になった今でもいつになく思い出す.折角生きているので考える時間を持つ習慣も,このころのものだ.考えることの要は自分が誰かということだ.
この人生はこれで良かったか.学校教育の課程を修めただけなら,生涯ついて回るだろうこの問い.私はもう何度も解を出し,考え直しては仮説を立て,人生を格闘してきた.だからだろうか,もうこの種の問いによって答えがない状態に彷徨うことがない.むしろ自信をもっていくつもの答えを並び通せるほどだ.しかし最終的な答えだと思えるものはまだ少なく,いくつかは自分の最終回答であるも,粗笨なもので,解像度は低いと思っている.
もし人生の問題に回答が出たら生きることが詰まらなくなると云った人がいた.私はそうは思わず,当座の回答が出てからが人生の開始点だと考えてきた.実際私の人生はそうなった.高卒までに考えた私の世界観は,確かに私の回答だったし,イエスに出合ったときの一大的価値転覆をいまだに鮮明に覚えていて,私は人生を人の何倍もの濃さで味わえていると感じている.もし普通に難関大学のために青春を費やしていたらと思うと族とする.
私の豊かさは,今までの周到な学問的計画と準備,結婚相手との出会い,イエスと教会.この複合である.私が誰なのか,考えればわかる問題だと思う.でも,環境によって変わる考え方である.日々少しずつ変わる私の思いによって,私が誰なのかさえ変わって行く.人間は移り変わる.自分も思考も変わっていく.変わらないと思うのは錯覚である.だから私は好んでよく考えるのである.私が誰かということを.

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