きょうは仕事をしていて自分が間違っている感覚に捉われた.何が間違っていると感じたかといえば,ことばのこと,仕事の取り組み方,生きてきた時間.最後は所謂自己否定である.高校の頃からの自己否定の癖がいまだに付いていることに驚いた.一度付いた癖は中々治らないということか.ただ,多少余裕のある今は,ことばが意識を荒らしている,とことばを流して見過ごすことができた.
私は自分を疑う習慣がある.大きく疑うこともあるけど,前提を疑うなど思考の技法もあり,精神衛生を汚さない程度で,うまく疑うことができてきた.疑うことは多く見つかるというか,疑うから見つけられるのであるから,自分で多くを見つけたい私にとっては,疑うことは楽しい作業だ.しかし,高校の頃の自己否定的な私の思考は,生活にも知的な意味でも障害になるものだった.
高校生の時は考える楽しみなど全く分からないままに考えてきたので辛かったが,そんな高校生の時にしか分からないこともあると私は云える.私は高校生の時の感性を自分に取り入れることはもはやできない.危険で鋭くて破壊的な感性.仮にそれを取り戻すことができるとしても,私は選ばない.私の高校時代の思考の一部はいまだに文字列で残してあるが,読めたものではない.
考える楽しさというけど,楽しくなるまでに苦しむ人の方が,いきなり楽しめる人より多いのではないか.でなければ,暗い顔をして歩いている人が多いのはなぜか.自由に考えることができるようになった人は,この情報通信社会を闊歩できるが,制約が多すぎる人は,本当はもっと自由に捉えることだってできる.こうして自分が主張するほど自分が間違っている可能性に責任を感じること,これが年齢を経ることなのだろう.

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