クリスチャンにとって名誉とは自分の功績や能力を示すものではないだろう.神さまがくださった賜物とたくさんの恵みを単に自分の活動に使っただけのこと.自分には神さまから恵みを頂ける能力があるとか,神さまの恵みを生かせるほど有為であるとかでもない.だからクリスチャンが此の世の名誉を受ける時,また,称えられる時,多くの場合に少なからず困惑するのではないか.老年期に受賞を辞退する人物もいるし,そもそも受賞を断る人間もいるらしい.名誉は国のため世界のため,はたまた時代のためだという声さえある.いったい名誉をどう受け止めたらよいのか.
栄光神にあれや.神の栄光が現れるために私たちクリスチャンはこの世に使わされている.ヨハネは人からの名誉は受けないことにしているという.世間的に有名になるとか,有名さで稼ぐ事業を始めるとか,世に名前を売るような仕事には就きたくない.それよりも,与えられた仕事を地道に成し,堅実に資産を積み上げ,老いても暮らしに困らず,社会に負担や迷惑を増さないような市民でありたい.つまるところ私が此の世に使わされているところの理由を捉え果たすことが,私と神さまの間の契約の一部であり,誰にも見えない名誉もそこにあるといえる.
神さまからの名誉は,世からの名誉とは異なる.世の名誉には,賞金や知名度や世間からの称賛がついて回る.それだけ高額な賞金をもらう理由は,その対価として有名という傷を負い続ける生活に変わってしまうからだ.名誉は受賞者を傷付ける.特にこの情報通信社会においては,受賞の知らせはすぐさま報道に変換され,検索機関から辿れる受賞者一覧に追加され,顔が広まる.自分の受賞を以て自分に傷を負う.その代償として高額な賞金を受ける.これが世からの名誉だ.これに対し神さまからの名誉は心地よい.世とは離れて無限の恵みを受けた証なのだから.
神さまからの名誉を受ければ,世に対する執着が減退することはもちろん,満たされることに付随する効果,たとえば私利私欲を滅し,知恵を与えられ,平静な気持ちや感謝を得る.この静かに称えられる老年期を私は受けられると思うと私は神さまに感謝せずにはおれない.世の名誉を受けることになってもそれを事前に断れるくらいの豪胆な理由も得られる.神さまはすべてを与えてくださる.私の力で生み出したことは,神さまが与えてくださったこと.もしいずれ私が世の名誉を受けるなら,神さまからの賜物に対する称賛であると理解しよう.

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