イエスは十字架で贖罪し復活した.過去から未来に生きるすべての人間を神さまと和解させた.イエスは今も生きてわれら人間たちとともにある.だからイエスを超えようとか救世主になろうとか考えるのは喜劇にすぎるし,イエスがすべてを達成したので私はなにもできないししないと考えるのは神さまの賜物を損う.私たちはそれぞれ異なった神さまからの賜物をこの社会で活かし,礼拝で神さまを賛美し奉仕献金することを反復する.自分の持ち物はないのであって,能力も才能も職業も職能も,いくら努力してきたかにかかわらず,一切は神さまのものであることに変わりない.
私たちの努力の方向は,一切を与え続け最期までを保証する神さまに向けるのがよく,自分の管理を離れ頂いたものを神さまに返し報告することで,神さまは再び良い形で与えてくれる.個人の努力の方向は自分の所有やこだわりや技芸の研鑽ではなくて,神さまとの交わりと和解と赦し,積極的な神さまとの交流と語らい,神さまへの感謝と奉仕と祈りである.自分の能力ほどあやふやな悪はない.特にこの実力がもてはやされるこの時代にあって,認められた能力を自分のものと勘違いすることがこの世の病理になっている.根源であるともみていいだろう.自分が社会に認められたら,神さまに感謝しお返ししたい.
自分を疑ったり,自分の認識を改めたり,自分の認知にかかわる改変は,恐らくこの時代にあっては日常的に起こる.学習による変化を遂げ続けねば生きてゆけない時代になっている.ある面で厳しく,ある面で楽しく,しかしいずれであっても陥穽が至る所に待ち構えている.私だけの歩みでは必ず穴に落ちる.だから神さまに頼って穴の前で事前に注意を知らせてくれるよう,陥穽の術策から免れて生きるように導いてもらえるよう,祈り続ける.自分のために祈るのは悪ではなく,神さまを求めないほうが悪である.自由に生きるとは免れて生きることである.世の誘惑から解放されたい.
世には多くの欲が関係し合い成り立っている.ニーズや需要とは世の欲である.人が欲するものを作って売ることで成立している.その欲を的確に捉えられる人物は成功を収めるだろう.しかし,世の成功が何だろう.神さまの前に堅く立てるのでなければ,何を作って売っても空虚である.世の欲,称賛,富と名誉.持たざる者の遠吠えではない.免れて生きるために,多くを欲しないことで楽になる.神さまとの関係を強めるために時間を使うことで,私は神さまに近づくことが最大の喜びだと知れる.音楽,散文,数理.神に近づく手段は歴史上多く存在する.それら梯子を上った先は少しでも天に近づいているだろう.神さま,私はもっと近づきたい.

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